大衆文化における代替可能な普遍性と代替不可能な固有性がどーとかいう雑想

11月11日の朝日新聞に載っていた根本敬さんが韓国について語った記事がおもしろかったです。
長年韓国文化に関わっている方だけあってなかなか含蓄のあるお話だと思います。


【韓国】韓国ドラマやKポップは韓国人がこうありたい、我が国こう見て欲しいという希望を描いたもの 韓国はドラマと逆の魅力ある[11/11] : 2ちゃんねるで話題のニュースまとめ


特に印象深かったのは以下の部分ですね。

 ドラマやKポップは、韓国人がこうありたい、ウリナラ(我が国)をこう見て欲しいという希望を描いたものです。韓流ブームは、それがリアルな韓国だという誤解を、日本人が進んで引き受けることで成り立ってる。そこで「実像とドラマは違う」なんて絶対に言わないですから。ましてやお金が絡めば。


韓国ドラマやK-POPもそもそもエンターテインメントなのだから夢や希望や願いや理想といったものを形にした作品が作られることは当然です。裏を返せば、そのようなエンターテインメントの本質的な部分に忠実であるからこそ韓国のコンテンツが普遍的な魅力を持ち得ているのだとも言えます。

ただご指摘されている通り、「実情をあまり詳しく知らない国の文化である」というヴェールが被さることで、ややもすると作品を通して韓国という国を盲目的に理想化し過ぎがちになる傾向が自分にも全く無かったとも言えないようにも思えます。


もちろん実像を正確に反映していないから悪いというわけではないです。

けれども、K-POPの場合にしても実際のところ僕は、純粋に韓国の音楽が好きなのではなくて、「高度に普遍化された韓国の音楽」であるK-POPが好きだったんだなあということに改めて気付かされました。

初めてSNSDやKARAやWonder Girlsの曲を聴いた時のことを思い出すと、それらに対して特に韓国のものだという違和感も感じず普通に「ポップス」として受け入れていたような気がします。

もし韓国の音楽を全く知らない状態で、例えばポンチャックを「これが韓国の大衆音楽ですよ」という形で聴かされたら、好き嫌いはともかく明らかにイロモノだとしか感じなかったでしょうね。


ある文化が大衆性を獲得しようとする時、何らかの形で必ず普遍化のプロセスが必要になるわけですが、それをかなり高度かつ強力に行なっているのが海外市場を視野にいれている昨今の韓国のポップカルチャーであるというようなことはいろいろなところで言われています。(多くの場合「日本も見習うべきである」的な論調と一緒に、そして政治・経済の話に敷衍する形で)


実際に韓国の文化戦略が世界的にどの程度成功を収めているのかとかそういうことは僕にはよく分かりません。
ただ確実に言えるのは、もし韓国のポップカルチャーが世界的な市場の中で一定程度のプレゼンスを保持しているならば、その普遍性のコードは必ず模倣されるだろうということです。
歴史を見れば明らかな話です。


では、普遍性のコードが模倣された後どうすればいいのか?
大きく分けて2つの方向性があるでしょう。
1つはまた新たな普遍性のコードを模索し続けること。つまり永遠に作り出したり研究されたり真似されたりのイタチごっこをやり続けるということです。
もう1つはその普遍性のベースとなっている固有性に立ち返ること。つまり置き換えが困難な独自の固有性を「逆に普遍性によって獲得した支持をベースにして」今まで以上に押し出していくことです。
この2つは必ずしも排他的な関係にはないので、大事なのは組み合わせた上でどのくらいのバランスでやっていくかということだと思います。


最近2年間ぐらいのアジア圏の音楽シーンを見ているとK-POPの影響がいろいろなところで見られます。曲調、ファッション、PVの作り方など…。日本でもK-POPっぽいテイストの曲が増えてますよね。

K-POPに関しては既に普遍性のコードが模倣される段階に入っているということが言えるでしょう。
ブームの中で普遍性の表層に触れている多くの人達をどれだけより深い固有性の領域に引き込めるかが、K-POPが一過性のブームとして目新しさを失い他のブームに置き換えられてしまうのか、それとも一文化として定着するかの分かれ目になるのかなと思います。


個人的には言語は韓国の固有性への入り口としてとても大切だと考えています。
もちろん意味論的なレベルではそれなりに学習しないと理解できないわけですが、その言葉の音自体(子音の強さなど)がK-POPの魅力の一要素を担っているという側面があります。
その意味で、普遍的な「音」と固有の「意味」をつなぐ言葉の役割は大きいのです。


僕は韓国人歌手(というか海外の歌手)の日本語歌唱には以前から一貫して否定的な立場です。ただ、最近の日本語歌詞は頑張ってるなあと感じられるものもそれなりにあることも事実です。だから、K-POPへの入り口としては全否定されるべきではないのかなとも思います。
でもやはり固有性の尊重という観点から、できれば韓国語歌唱への統一を希望します。


当たり前ですが、ひとえに韓国のコンテンツが好きな人といっても、その人が「韓国の実像」を受け入れるかどうかというのはまた別の話なんですよね。
文化的な深部へ自ら掘り進んでいく人もいれば、実像は実像として割りきって妥協する人もいれば、実像を知って拒絶する人もいます。いろいろな人がいます。
自分はといえば3年ぐらい前から時々飽きたりしながら固有性を目指すでもなく普遍性のお花畑の中で戯れ続けている感じです(笑) これからもそうやって「幸福な誤解」をし続けるのか、そのうちK-POPが何か他のものに置き換わるのかはなんとも分かりませんね。



最後に、身体に関しては実像でお願いします^^